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コンピュータの中の「建築」

97.2.18

本江正茂 (もとえまさしげ)


コンピュータの中の建築

 「コンピュータの中の建築」について考えてみましょう。もちろん、あなたの前にあるパソコンの箱を開けてみても、中にパルテノン神殿が入っているわけではありません。もっと大きなスーパーコンピュータの箱の中にだって、やはりピラミッドは入っていません。また、モニタの画面に、タージマハルの写真が映しだされていたとしても、そのコンピュータの中にタージマハルが入っていると思う人はいません。

 あたりまえのことですが、「コンピュータの中の建築」という言い方は、ひとつの「たとえ」にすぎないのです。

 しかし、それは理解を助けるためのおもしろおかしい「たとえ話」にとどまらない、非常に重要な意味をもった「たとえ」なのです。それは、「建築」とはなんなのか?という問に、本質的な部分で関ってくる「たとえ」であり、同時に、コンピュータを使うことの意味にも関ってくる「たとえ」なのです。

建築(けんちく)と建物(たてもの)

 建築(けんちく)と建物(たてもの)を区別してみることから、話をはじめたいと思います。

 このふたつの言葉は字面もよく似ていますし、ごっちゃにして使われることもありますが、それでも、私たちは特に意識せずにちゃんと使分けています。たとえば、「建築する」とか「建築中である」とは言いますが、「建物する」とは決して言いません。

 「建物(たてもの)」とは文字どおり「建てられた物」であり、物理的なモノそれ自体のことです。石や木やコンクリートやガラスなどを組み合わせて作られたモノそのものであり、重さがあり、体積があり、燃えたり、潰れたりします。

 それに対し、「建築(けんちく)」という言葉はモノそれ自体を指すと同時に、それを作る行為、つまりコトの意味を含んでいます。「建物」が「建てられたモノ」である、のと対比させていうと、「建築」とは「建て築くコト」だといえるでしょう。つまり、モノとしてだけでなく、コトに意味がある場合、「建物」ではなく「建築」という言葉を用いるわけです。

 また、「建物」や「建築」に似た「建」のつく言葉には、他に「建設」「建造」「建立」などがあります。ここにあげた3つの語は、ニュアンスの差はありますが、どれも「(構造物などを)つくるコト」です。モノの意味はありません。モノを指すためには、それぞれに「物」をつけて、建設物、建造物、建立物といわなければなりません。

 「建築」という言葉の面白さ、意味深さは、それが建てられたモノであり、かつ、建てるというコトである、というところなのです。

「建てる」というコト

 「建築」を、建てるというコトに重きをおいて考えるとして、「建てる」とはどういうコトなのか、について、さらに検討してみましょう。ひとくちに「建てる」といってもいろいろありますからね。

 建物を建てる、という作業を思い浮べてみてください。どんな情景が目に浮かぶでしょうか。長い材木に鉋(かんな)をかける大工さんの姿、鉄骨トラスを吊り上げるクレーン、それとも生コン車から送り出されるコンクリートを型枠に注ぎこむパイプの脈動でしょうか。そうした建設現場でのすべての行為が「建てる」というコトであり、その積重ねによって建物が実現するということは間違いありません。

 しかしながら、どんなに大量のコンクリートを敷地に運びこんでも、ただ闇雲にぶちまけたのだとしたら、それはただのコンクリートの塊であって、建物と呼ぶことはできません。磨きあげた材木をどんなに揃えても、バラバラに横たわっている限りはただの材木の束にすぎないのです。コンクリートの塊や材木の束が、建物になるためには、意味ある位置に、意味ある形で配置され、組み合わされる必要があります。

 そこに、「建築家」と呼ばれる人たちが登場します。

 建築家は、直接自分で建物をつくるわけではありません。レンガを積んだり、ノミをふるったりはしません。建築家は、何を、どこに、どんな形で、どんなふうに置くのか、を決めています。つまり、建物のつくり方をつくるのです。この、「つくり方をつくる」というコトによって、「建てる」コト全体が統御されているからこそ、コンクリートは壁になり、材木は柱になり、建物になることができるのです。

 このことを、ミース・ファン・デル・ローエという建築家は「われわれは秩序を持たねばならない。秩序とは、それぞれのものをそれに適した所に置き、それぞれのものに、その性質に応じた役目を与えることである」と言っています。

 もうひとり、建築家ル・コルビュジェもまた「秩序」について、こう語っています。

「建築する、それは秩序づけることなのである。何を?すなわち諸々の機能ならびに物体を秩序づけること」

 ミースと同じような言葉ですが、こちらには「機能」という言葉が出てきました。

 一般には、「機能」というものはあらかじめ決っていて、それを実現するために建築の設計が行なわれると考えてしまいがちですが、それは正確ではありません。たとえば、住宅の場合、敷地の中にさまざまな大きさの部屋をバラバラに置いて、それぞれに居間や厨房、寝室、書斎などと名前をつけてみたところで、それぞれの部屋がそれぞれの役割をきちんと果たすことができるわけではありません。機能もまた、コンクリートや材木と同じように、意味ある位置に、意味ある形で配置され、組み合わされることによって、すなわち秩序だてられることによってはじめてあらわれる――機能する――のです。

 そこいらに転がっているコンクリートの塊や材木の束。バラバラに散らばっているさまざまな大きさの部屋。そうした、そのままではわけのわからない複雑で混沌とした状態にある物体と機能に――すなわち「世界」に――秩序を与え、人間にとって了解可能なものにとりまとめることが、建てるというコト、建築というコトなのです。

 なんだかだんだん話が大袈裟になってきました。「建築とは世界を秩序だてることである」なんて聞くと、もう住宅やオフィスビルや美術館や劇場などといった普通の意味での「建物」とはほとんど関係なくなってしまうような気がするかもしれません。しかし、「建築」を、このように、より抽象的な水準で理解することが、「コンピュータの中の建築」を考えていく上で非常に重要な意味をもってくるのです。さらに先へ進むことにしましょう。

「機械」という世界モデル

 さて、ル・コルビュジェは、「住宅は住むための機械である」という有名なテーゼを残しています。このとき「機械」という言葉は、どんな意味で使われていたのでしょうか。

 かつて――ざっといって百年前ぐらいでしょうか――ある目的のために秩序だてられて無駄なく正確に働いているというイメージを代表するものは「機械」でした。「機械のように正確な…」という言い方は今でもしますね。

 たとえば蒸気機関車。たくさんの客車や貨車を引いて鉄路を驀進するための機械。この目的を達成するために必要にして十分な部品だけでできていて、無駄なものは何一つついていない、黒一色に塗りこめられた徹底的に合目的的な構成。そして、水と石炭とレールのあるかぎり、世界のどこへでも走っていくことができる。それが蒸気機関車という「機械」です。

 だとすれば、「住むための機械」とは、住むという目的をもち、その目的に関係のないもの、たとえば装飾などは一切なく、世界のどこにでも建てられる、そういう住宅のことだといえます。実際、ル・コルビュジェをはじめとする近代建築家たちの提案した「インターナショナル・スタイル」の住宅は、工業化社会の広がりとともに、世界中で建てられるようになりました。

 ごちゃごちゃとしていて、不安定で、そのままでは扱いあぐねてしまうような世界の暗闇の中で、明快な目的を持ち、その目的のために様々な部品が連動し正確に動作していることがはっきりと目に見えている「機械」は、何かをつくりだそうとしている人たち、デザイナーたちにとって、光り輝く存在でした。レイナー・バンハムが「第一機械時代」と呼んだように、20世紀前半の工業化社会においては、建築のみならず、デザインのあらゆる分野で、「機械」は、秩序だてられた世界のイメージ、すなわち世界モデルとしての役割を果たしてきたのです。

 こうした世界モデルとしての「機械」と、すでにみてきた「建築とは世界を秩序だてることである」という時の「建築」とは、非常によく似ています。「建築」もまた、ひとつの世界モデルにほかならないのです。

 では、「機械」と「建築」、このふたつの世界モデルは、どう違うのでしょうか。

「機械」から「建築」へ

 鈴木博之は、「近代建築の変容:機械の神話から建築の神話へ」『建築20世紀 PART1』(新建築社、1991)のなかで、「20世紀の時代精神」であった「機械」という世界モデルはいまやその力を失っており、「多次元化し、あまりに複雑になった社会を把握するモデルとして、機械に代わって建築という存在が時代の姿を示す存在になりつつあるのではないか」と指摘しています。

 機械は、なぜモデルとしての力を失ってしまったのか、鈴木は「機械の正確さが、人間の感覚の持つ検証能力を超え、人間が機会にとっては誤動作の原因となりかねない不確定要素にまで落しめられるようになるとき、人間と機械の間には不可視のベールが降りてしまう」からだ、説明しています。

 つまり、工業化社会が進み、私達の身のまわりが、機械で埋め尽くされるようになっていくのと並行して、機械自体もどんどん複雑に精密になっていきました。精緻を極めたより新しい機械は、その動作を見つめていても、何がどうなっているやら、ほとんどまったくわからないものになっていったのです。

 蒸気機関車はシンプルでした。真っ黒な石炭が釜にくべられ、赤く燃え盛る炎がボイラーのお湯を煮えたぎらせる。白くふき上がる蒸気によって押し出されたピストンの力がロッドを経てクランクに伝わり、巨大な動輪を回転させていく。それは大きく、複雑ではあったけれども、あらゆるメカニズムがはっきりと目の前に見えていました。規則正しい大きな音も聞こえました。変な音がする時は、きっとどこかが壊れているのでした。その後あらわれた内燃エンジンのディーゼル機関車は、車輪も小さくて、どこにどう力が働いているのやら、外から見てもわからなくなってしまいました。それでもボンネットに触れば熱く、排気ガスはちゃんと臭いのでした。新幹線はどうでしょうか。流線型の車体は確かに速そうに見えます。けれど、肝心のモーターも車輪も床下に納まっていて、カバーまでかけられており、においもせず、低くうなる音しか聞こえてきません。新幹線は、他のどんな機関車よりも、静かに、揺れずに、そして速く走ることができます。便利で快適であることは間違いありません。しかし、それを「走るための機械」として見た時、蒸気機関車が持っていたわかりやすさ、走るぞ!走るぞ!走るぞ!という強いイメージを喚起する迫力は失われました。子供のおもちゃの機関車がいまだに蒸気機関車ばかりなのは、蒸気機関車という「機械」が、「走る」ことへむけて組織された秩序をもっとも端的に表現する世界モデルだからなのです。新幹線は素晴らしい技術革新の成果です。でも、もう、子供には遊んでもらえなくなってしまった。新幹線という「機械」には、秩序だてられた世界の有り様を目に見える形ではっきり示す、世界モデルとしての力がないからなのです。

 機械という世界モデルが失効した今日、新たな世界モデルとして「建築」という存在に可能性があるのではないか、「不可視の構造体を、一つの建築なのだと仮定することによって、そこに了解可能な世界が開けてくる」と鈴木は指摘して、機械と建築との決定的な違いを二つあげています。

 まず、「機械が普遍性と大量生産性を持つのに対して、建築は個別性と一回性を備えている」こと。建築はひとつひとつ全部違うものだということです。

 もうひとつは、機械は「机の上に対象物を置いて、それを外側から操作してゆく」ようなものであるのに対して、建築は「自らがその対象物の内側に立って内容を把握」していくものであるということです。機械は、人間が外にいて、スイッチを入れればあとはずっと勝手に動いています。しかし、建築では、人が中にいます。しかも大勢いて、それぞれが同時に様々なことをする。その複数の主体による同時かつ多数多種多様な活動を一挙に内包しているのが「建築」という世界モデルなのです。

コンピュータは機械ではない

 ようやく、コンピュータの話ができるところまできました。

 19世紀から20世紀の前半にかけて、近代工業社会をひっぱってきたテクノロジーは、蒸気機関に代表される機械でした。そして、20世紀中頃、コンピュータが登場します。はじめは計算機、つまり「計算する機械」だと思われていましたが、すぐに、コンピュータは単なる機械ではないことがわかってきました。ご存知の通り、コンピュータは、猛烈な速度でスイッチのon/offを繰返しながら、ひたすら計算をする、ただそれだけの装置です。しかし、この「ただ計算するだけ」であるところが、コンピュータが単なる機械ではない理由なのです。機械にはそれぞれに明解な目的があります。逆にいえば、機械は他の目的には使えないのです。コンピュータも、はじめはミサイルの弾道を計算するという明解な目的のために開発されたのですが、なにしろ「ただ計算するだけ」なので、他のことにも使えました。そして、文字や画像や音声など、ありとあらゆる情報は、計算によって、つまりコンピュータによって扱うことができるのだと気付くまで、そう時間はかからなかったのです。

 コンピュータは特定の目的をもちません。情報処理になら、なんにでも使えます。なんでもできる、という無限の可能性。それは魅力的ではありますが、同時にひどく不安な、わけのわからないものでもあるということです。しかも、内部で何が行なわれているのかは、外から見ても全然わからない。このコンピュータというまるでわけのわからない存在を前にして、これをどう理解すればいいものか。こういう時、人間は「たとえ」あるいは「モデル」を使って、対象を理解しようとするのです。

人格モデルと空間モデル

 コンピュータはまず、「人」にたとえられました。「人格モデル」といってもよいでしょう。あらゆることを知っていて、求めに応じて正確な答えを教えてくれる、そういう人格として、コンピュータを理解しようとするものです。ちょっと前のSFには、マザーコンピュータなどといって、人格モデルのコンピュータがたくさん登場していました。その最も鮮やかな例は、映画「2001年宇宙の旅」に登場するHAL9000型コンピュータでしょう。

 実は、この人格モデルは、先に述べた「機械」モデルとよく似ていて、人間はいつまでもコンピュータの外側にいることになりますし、コンピュータは誰に対しても同じものとして現れることになります。コンピュータの数も利用者も少なくて、どこかの要塞の地下室にでも鎮座ましましている間はそれでも良かったのですが、多くの人がそれぞれの目的で同時にバラバラにコンピュータにおうかがいを立てるようになると、人格モデルのコンピュータは、いわばスーパー聖徳太子がいたるところにいる、というようなことになり、想像できなくはないけれども、いささか荒唐無稽なものとなって、「たとえ」としての趣旨を外れていってしまいます。人格モデルでコンピュータを理解する方法には限界があるようです。

 もうひとつの「たとえ」の方法が「空間モデル」です。これにはサイバーパンクの諸SF作品の例をあげるまでもありません。あなたが今使っているパソコンも、空間モデルでできているにちがいないからです。たとえば、私が今この原稿を書いているアップル社のマッキントッシュでは、コンピュータの画面は、誰もがいつも使っている空間、すなわち「机の上」にたとえられます。利用者は「フォルダ」を「開いて」必要な「書類」を「机の上」に広げ、「ペン」や「鋏」を使って「切ったり貼ったり」しながら仕事を進めていくのです。さらに、コンピュータを相互に接続したネットワークを、アメリカのゴア副大統領は「情報スーパーハイウェイ」と呼びましたが、これも空間モデルを拡張したものにほかなりません。

 空間モデルでコンピュータをとらえるということは、利用者はコンピュータの内部にいるということであり、いいかえれば、コンピュータは「環境」として現れるということになります。そして、それぞれの利用者は、自分の部屋を好みのものにしつらえるように、自分なりのコンピュータの「環境」を整えることができます。他人のパソコンを借りて、非常に使い辛い、居心地の悪い思いをした経験をお持ちの方も多いはずです。

 こうした「環境」としてのコンピュータは、内部に人間を包含するものであり、個別性と一回性を有するものです。人格モデルが「機械」に似たものであったのに対し、空間モデルでコンピュータをとらえる時、そこではまさに「建築」という世界モデルが適用されているのです。コンピュータという、そのままでは人間にとってほとんど了解不可能な存在に、明解な秩序を与え、鮮明な姿を与え、しかも、多数の主体によってなされる複雑な出来事を一挙に内包できるようにすること、それが「コンピュータの中の『建築』」というコトなのです。

コンピュータの中の「建築」

 そのままではわけのわからない複雑で多様な混沌とした世界に、明解な秩序を与え、人間にとって理解し行動することができるような鮮明な姿を与えること、しかも、その内部で、多くの人によって多くの事が同時に混乱なく行なわれるようにすること、それが「建築」というコトです。

 そして、「建築」というコトを実現するためのモノとして、ずっとずっと長い間、わたしたちは「建物」を建ててきました。誕生を祝い、結婚を慶び、死を悼み、神と出会うために、私たちは石を積み、教会という建物を建ててきました。あちこちからやってくる列車を結び合せ、なつかしい人を待ち、旅立ちに胸を奮わせるために、私たちは鉄を打ち、駅という建物を建ててきたのです。

 今日、コンピュータの世界が、窓や机や図書館や遊園地やハイウェイにたとえられていること、つまり、コンピュータが「建築」の姿をもって私たちの前にあらわれようとしていることは、決して、無限の選択肢の中から、なんでもいいんだけどとりあえず「建築」っぽくしてみました、というようなものではありません。私たちは今、コンピュータによってもたらされたまったく新しい世界を生きはじめようとしています。その不可視の世界を秩序だて、了解可能なものとしていくために、長い歴史をかけて成熟させてきた「建築」という手立てを用いようとしています。コンクリートや材木のかわりに、ビットをつかって、コンピュータの中の「建築」を建てはじめているのです。

以上


あとがき:
 この文章は、もともと『バーチャル・アーキテクチャー:建築における可能と不可能の差』(東京大学総合研究博物館,1997)のために書かれたものでした。しかし、おおよそ書き終えたところで、どうもその本の趣旨にはあわないように思われたので、ボツにしたものです。で、そのまま、ながらく忘れていたのですが、先日、ディスクの掃除をしていたときに発掘したものです。ご笑覧たまわれば幸です。

このボツ原稿のかわりに書いたのは、「体の戦法」です。あわせて、お読みいただけると幸です。

revised: 01.7.13
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