仙台鉄道沿線の風景


1.通町駅と北仙台駅

開業当初の始発は通町駅(青葉区通町二丁目3.4.9)であり、 奥州街道の仙台の北はずれ、青葉神社の真近にあった。 仙台軌道が開設された頃の通町駅付近は、仙台市街のはずれで、 雑木林と野原で人家はなかった。当時の仙台市街地は 芭蕉の辻から国分丁と経由してくる通丁通り(奥州街道)が主流であり、多くの店もあった。 通り筋の木町には味噌醤油会社や瓦工場・酒造工場等があり大変な賑わいを呈していた。 仙台軌道会社はできるだけ経費が掛からないことを一番としていたので、 土地の安いこの場所を始発としたのであろう。 この一帯は青葉神社の傘下で、 神社の祭礼の際には明治のころより競馬大会が行われて盛会であった。 通町駅附近の当時の復元図から見ると、かつての競馬場の南部一丁四方に駅の施設が造られた。

その後、昭和12年に市電北仙台〜北四番丁間が開通した。 これに合わせ通町駅を廃止し、北仙台駅を始発駅とした。 北仙台の仙台鉄道本社跡は現在宮城交通本社となっている。

仙台通町発車が30分位おくれるのは当り前で、 お客さんもそれを計算して乗ったものだった。 通勤通学生、駅員皆顔見知りの仲で、 これらの人々が集まってから発車するといった和気合々の雰囲気であった。

2.通町駅〜東照宮駅(1.7km)

通町駅から東進して第一番目の東照宮駅を設置した。 現在の東照宮前の南部屋酒舗の附近で、 当時この一帯はブドウ・梨などの果樹林があったと言う。 現在、東照宮駅前周辺は関兵馬氏所有の駐車場になっている。

北仙台〜東照宮駅間の軌道敷の一部は、現在道路として利用されている。

3.東照宮駅〜八乙女駅(5km)

東照宮駅を過ぎると梅田川に架かる宝蔵院上橋を渡り、 ここから北に大きくカーブしながら現在の仙山線下をガードでくぐり抜けている。 このガードは昭和4年に仙山線仙台〜愛子間開通によりできたものである。 この区間も現在道路として利用されており、 このガードの橋脚には仙台鉄道の時代に使用したものとペンキで記されている。

いよいよ山間地帯に入る。小松島の仙台聖フランシス教会の北側に堀があり、 この堀に添うように西方向に進んだ。現在のフルヤ小松島センターの北側をかすめ、 長命荘住宅(瞑想の松の附近で仙台市で初めての造成地)前を 北西にややカーブしながら進んだ。ここは急勾配の難所で、 乗客はみんなで下車して後押しをしたり、客車を残して機関車だけ走ったりは度々であった。

この急坂を登り詰め、現在のよこやまストア店から北西方向に進路を変え、 緩い坂を下る。この附近の標高は70mで、仙台鉄道の路線の中で最も高い地点である。 現在は静かな住宅地となっているが、ここを通過して台原森林地帯に入った。 台原森林内は小川の東側(旭が丘の断崖下、台原森林公園内) の標高の低い平坦地(一念坊沢と言われていた)を北上した。 現在、この路線のすぐ東側を仙台市地下鉄が走っている。 現在の黒松団地南入口附近で仙台川に出る。 ここは藩政時代に罪人が仙台より刑場に曵かれて行く際に近親者と別れた 「くらすみの橋」のあったあたりである。 仙台鉄道はここで橋を渡り仙台川の西側を川に沿うようにして北上した。 八乙女駅は、現在の地下鉄八乙女駅の北隣にあった。 現在の八乙女駅附近は地下鉄の終端駅として賑わいを呈していが、 当時は無人駅で、国道沿いにある及川商店で客は待機し、警笛で駅まで歩いて行く、 といったのんびりとした光景であった。

4.八乙女駅〜七北田駅(0.9km)

八乙女駅からまもなく七北田川を渡る。 七北田鉄橋の遺構は、数年前の河川改修の時までは残っていた。 渡りきった所に石止神社がありその神社すぐ脇の東側を北進する。 現在、県道(根白石−岩切線)が東西に貫通しているが、 この県道沿いのケーキ店の南東方向に軌道の橋台の遺構が現存しており、 附近は農道として使用されている。この橋から北東方向に北進すると程なく七北田駅がある。 現在もこの附近は当時の軌道の面影を良く残っており仙台鉄道の存在感を知ることが出来る。 元・泉タクシーの営業所やコカコーラの泉営業所、最近まで森林組合の製材所があった。 また、駅舎の位置に元七北田駅長の遠藤氏の子息がお住いしている。

5.七北田駅〜山の寺駅(1.6km)

七北田駅から緩い坂、現在の七北田中学校東裏を下る。 現在の国道4号線を横断して要害川を渡り永和台住宅地の西沿いを北進する。 ここに橋台の遺構(レンガ積み) がコンクリートの堤防と一緒になり現存している。 しかし、現在要害川の改修中であり、 これらの遺構も河川改修とともに消えてしまうことであろう。

要害川から平地に出、洞雲寺前を通過して山の寺駅 (現在、向陽台団地の入口下の三菱自動車店舗前・宮城交通バス停)に出る。 現在、国道と平行して東側だけに幅員3mの車道がありこれがかつての軌道跡である。 現在の要害川は河川改修されたもので国道と平行に取り付けられているが、 当時は河川が大きく蛇行しており現在の泉消防署当りまで蛇行した暴れ河川だった。

6.山の寺駅〜大沢駅(2km)

山の寺駅から現在のジャスコ前を通過し北側駐車場を横断して北進する。 ジャスコの北側に矢印型の大きな看板があり、この下が軌道跡である。 要害川と連れ添う様にして北進する。パチンコいずみセンター前を通過し、 国道東側を北進する。大沢境の残間久吉氏宅前を通過して西に大きくカーブする。 現在は生活道路で自転車専用道路としても使われている。 また、泉インター下のマツダ自動車店の裏には橋脚の遺構がある。 そして大沢木戸・大沢駅(現在・ゆたか食堂)に着く。 この駅には給水タンクがあり、始発の通町駅からは約11.4kmの地点である。

7.大沢駅〜陸前小野駅(5.5km)

大沢駅から大きく西北方向に向かう。 当時の軌道跡が現在の小野・宮床方面への道路である。 程なく泉ヶ丘小学校の校門前を通過して、 泉ヶ丘等の大規模団地と泉パークタウン工業流通団地の間の谷間の灘らかな平地を北進し、 陸前小野駅に着く。この駅は宮床方面からの木材と木炭関係の重要な搬入口である。 駅は現在の大規模団地「大富」の北西出入り口で宮床線と幹線との分岐点にある。 駅の東前には道路を挟んで農協倉庫があり、これは現在もある。 駅の跡は空地となっており、プレハブの物置がある。 ここの駅長さんは早坂いな吉氏で、駅舎の道路を隔てた南隣に後裔の方が商いを営んでいる。

8.陸前小野駅〜富谷駅(2km)

陸前小野駅から平坦地を進み進路をやや北東の丘陵の裾に向け、 竹林川と添う形で進み程なく富谷と宮床を結ぶ幹線道路に出る。 その接点の西側に一本松があり、その向いにある米倉庫は仙台軌道時代からのものである。 この倉庫の東側に元仙台軌道機関手の高橋清氏宅があるが、 この屋敷のまん中を軌道が走っていた。 高橋氏は、当時は一本松の北側に自宅があったが軌道廃止後現在の所にお住いしている。 富谷駅の駅舎は現在の高橋氏宅の東隣にあり、貨物用の引き込み線もあった。 ここの利用者は富谷の人が主体であり、富谷との間には乗合馬車が走っていた。 また、宮床方面からの木材や木炭等の集荷駅でもあり、人の背や馬の背に積んで運んで来た。 現在、道路の拡幅工事が進められておりこの一帯も様変わりすることであろう。

9.富谷駅〜志戸田駅(3km)

富谷駅から北上し、二ノ関の集落に突き当たった辺りに軌道の遺構が残っている。 この疎らな人家の前を通過していたが、この付近は若干の急勾配であったという。 現在の屋敷林の外郭を辿り、ここから大きく東に振れ国道4号線方向へ向かう。 現在の国道4号線宮交志戸田バス停留所から東側に少し入った所にある三塚氏宅に志戸田駅があった。 

10.志戸田駅〜吉岡駅(2.5km)

志戸田駅から国道4号線に添う様に北進し、永沢盛氏宅のすぐ東側を走っていた。 南に小さな用水がありこれを渡る橋梁の橋台跡が現存している。 ここから程なく北進すると吉田川に出る。ここを高田橋で渡り、 現在の大和町・警察署と消防署の西裏を北西に進む。高田橋の橋台跡は現存しており、 南側の方は橋台の周辺が堀下げられ農業に使用する木材置き場に、 北側の方はゴミ捨て場になっている。平地を北西に進み程なく吉岡駅に出る。 駅の跡は現在宮城交通の営業所となっている。

11.吉岡駅−大童駅(2.5km)

吉岡駅から西に進み吉岡の町の外周を右廻りに大きくカーブする。 現在、この軌道跡が通学等の生活道路(自動車進入規制)として利用されている。 この道は当時の軌道を思い起こさせるに充分な程よく原型をとどめている。 緩い坂を下った所で中新田に通じる県道を横断する、 この交差点の西側に石川商店があり当時は貨物取扱所と駅務を兼務していた。 駅舎は現在の店の東側にあった。

12.大童駅−大衡駅(3.8km)

大童駅から平坦地を北進する。 現在もこの軌道跡が現存しており学童の通学道路として使用されている。 ここも当時の軌道の面影を充分に残している。 普通車一台がやっと通れる幅員しかなく、これが長々と続いている。 その道が国道と接する附近に辿り着いた所に大衡駅がある。 この駅はこの地域で取れる亜炭の積み出し駅で近くの亜炭場から駅まで空中輸送をしていた。 若瀬亜炭・漆田亜炭・三本木亜炭等が賑わった。 当時は他に矢本亜炭・仙台亜炭(青葉城・向山・緑ヶ丘等)があった。

13.大衡駅〜四釜駅(6.5km)

大衡駅を過ぎると北西に進み、本町駅、王城寺原駅を通過する。 この附近は王城寺原演習場に続く兵舎があり、兵員や物資の輸送に使われた。 王城寺原駅を過ぎると再び県道を横切り、県道の西側を並行して進み加美一の関駅に至る。 この愛宕山附近も勾配がきつく、雪の日はよくスリップした。 加美一の関駅の南側は杉林の間を走っており、現在も軌道や橋台の跡が残っている。 四釜駅は現在の色麻町役場前の高橋商店である。 この向いのたばこ店に元四釜駅長佐々木氏がお住まいである。

14.四釜駅〜加美中新田駅(2.7km)

四釜駅を過ぎ、鳴瀬川手前の加美木材の附近で再び県道を横切った。 ここは高架橋で、その橋脚は近年まで残っていた。 現在の鳴瀬橋の東側に鉄橋があり、渡りきったところに鳴瀬川駅があった。 現在の吉平建具、浅野会館の場所である。

鳴瀬川鉄橋は台風や風水害の際にも被害を受けず健在であったが、 鳴瀬川と花川の間はたびたび水害の被害を受けた。 また、水害により汽車は運休となっても、 中新田から色麻の加美農校に通う学生はこの鉄橋を渡ったそうである。

15.加美中新田駅〜西古川駅(3.5km)

加美中新田駅は現在のエンドーの場所にあった。 岡町で現国道 347号を横切り、そこから東に90°向きを変える。 しばらくは国道と並行して田園の中を進んだ。 高川沿いの造酒屋の前を鉄橋で渡っていた。 現在もこの橋台の遺構が残っている。 高川は天井川のためその前後は急勾配で、ここでも学生など乗客による後押しの援助を受けた。 中新田駅は現在の陸羽東線西古川駅ホーム並行するようにしてあった。 なお、中新田駅の名前は、陸羽東線建設の際に中新田にも鉄道をという大運動が起こったが、 結果として現路線に決まった。そこでせめて駅名だけはということで 町外でありながら中新田という駅名となった経緯があった。

この区間は昭和35年の最後まで残った路線であり、 古川や岩出山の学校に通う学生たちで賑わった。 全線運行していたときでも陸羽東線との連絡路線として使われることが多く、 運行本数も多かった。また、加美中新田の駅で陸羽東線経由仙台行きの切符が売られていた。


東北大学土木計画学研究室 小林眞勝,徳永幸之,1991
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