仙台鉄道の沿革


仙台軌道(株)の直接の発起人になったのは、坂元蔵之充1)、荒井泰治2)、 伊沢平左衛門3)、但木良治、内ヶ崎文之助らで、資本金50万円であった。 仙台軌道を敷設しようと最初に県に願い出たのが大正6年10月のことで、 人車による敷設の特許願を提出した。 しかし、県では馬車鉄道を走らせることで話をまとめ、 この骨子で時の寺内首相、水野内相にあてて許可書を提出した。 大正7年9月の許可書には、動力は馬力ではなく蒸気を利用すること という条件つきで承認を受けることに成功した。路線は、 仙台通町より七北田・富谷・吉岡を経て古川に至る44.7kmで申請を行っていた。

いよいよ起工と云う時、第一次世界大戦後の不況も手伝って 資材が高騰したために工事に入ることが出来ず、 実際に工事が始まったのは許可取得の三年後、大正10年10月(1921)であった。 翌11年10月には通町〜八乙女駅間6.7kmが開通し、 同12年12月には吉岡駅まで開通し、路線延長は24.2kmとなった。

その後、吉岡駅以北のルートに変更が起った。 これは加美郡の人達から地方物産輸送のためにぜひ中新田方面に鉄道を という運動が起こり、吉岡駅から王城寺原、色麻を経て 中新田(陸羽東線・西古川駅)へというルートに変更された。 この変更理由には様々とりざたはあるが、その第一には鉄道敷設工費の節約がある。 当初の予定路線では、三本木付近における鳴瀬川及び多田川の橋梁工事に 巨額の出費が予想された。 仙台鉄道には巨額の建設資金を負担できるだけの体力はなく、 ここまでも出来る限り平坦地を選び、橋梁の数を極力少なくすることに傾注してきた。 路線を上流側に移すことにより、橋梁費の大幅な削減を図ることができた。 第二には陸軍の意向が考えられる。王城寺原には明治14年以来陸軍演習場があり、 陸軍最強部隊といわれた第二師団の精鋭が訓練するための大演習場として重きをなしていた。 この陸軍演習に伴う物資ならびに部隊員の搬送に役立てるためにも鉄道が必要であった。

吉岡と中新田とが結ばれたのは昭和4年9月(1929)のことで、工事開始から8年を要し、 仙台と中新田間44.1qの全線が完成した。総建設費は145万円であった。

昭和2年1月には社名が仙台鉄道(株)改められ、 昭和10年代は多くの旅客・貨物を運び営業成績も向上し、沿線住民に親しまれた。 しかし、戦中の昭和18、19年頃は鉄道のレールの整備が出来ず、カーブ附近では枕木が腐り、 クサビが外れレールが動き脱輪は常であったとういう。 また、経営も悪化し、電気料停滞のため通町駅舎附近の所有地は東北電力から差押えられた。

戦後は、バスやトラックに乗客や貨物を奪われ、経営は一層苦しいものとなっていった。 これに追い打ちをかけるように、昭和22、23年のカサリン、アイオンの両台風、 昭和25年の風水害と仙台鉄道は連続して大きな被害を受けた。 特に、色麻町花川〜鳴瀬川間、八乙女〜大沢駅間は所々で橋梁破損、土砂崩れなどが起こり、 七北田川の鉄橋は押し流されてしまった。昭和22、23年の被害は何とか復旧されたが、 復旧費用の支出は経営をさらに苦しいものとした。昭和25年の風水害を機に、 加美中新田〜中新田間だけの軌道を残して、他はバス運行に切り替えられた。 さらに、昭和35年には軌道を全面的に廃し、ここに“軽便っこ”は姿を消した。 再建のために吉岡出身の元鉄道建設局長但木氏の広軌条に変える案や 関西資本による赤字経営の引受けの動きもあったが、 黒川郡内の株主の反対もあってものにはならなかった。 この後は「仙台鉄道」の名称の下にバス部門だけで営業が続けられ、 昭和35年には仙北鉄道・古川交通・塩釜交通の三社とともに宮城バス(株) (現、宮城交通)が設立され、仙台鉄道は名実ともに解消することになった。


1) 坂 元 蔵之充/宮城県吏員、仙台市助役、宮城県農工銀行取締役、仙台市議会議長、 この外に多くの公共団体の理事長、組合長にも就任
2) 荒 井 泰 治/台湾貯蓄銀行創立、塩水港製糖(株)(台湾)社長、貴族院議員、 仙北軽便鉄道(石巻−小牛田)にも出資
3) 伊沢平左衛門/仙台市会議員、代議士、貴族院議員、宮城県酒造業組合長、 七十七銀行頭取、仙台市商工会議所会頭

東北大学土木計画学研究室 小林眞勝,徳永幸之,1991
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