機関車は軌間762mm用のドイツ(コッペル製)・ アメリカ(ポーター製)で7t・10tがあった。 機関車(5m)と客車(5m)3両・貨車(5m)2両の計6両編成(全長30m)で運行していた。 乗客が少ないときは機関車と客車1両、貨車1両の編成で運行することもあった。 客車には一等、二等(以上、背当てがビロード)、等外(背当てが板)があった。 開設当初の客車は4.5尺×2間程度の広さで、 座席数20名分位であって座席は対面方式で互いの膝が触れる位狭いものであった。 込み合う時は狭い空間に10人位立っことが出来た。 その後、客車が大きくなり6尺×5間で昔の様に膝が触れ合う様なものでなくなり、 その間に2人くらのスペースがあった。定員も40人位であった。
昭和14年当時は、機関車 5両、客車12両、貨車33両を保有しており、 昭和22年には機関車 9両、客車12両、貨車50両を数えていた。 仙台鉄道廃止後、不用になった機関車や客車などは、 福島県吾妻中の目温泉と猪苗代町を結ぶ高原列車として、 温泉のお客さんや安達太良山より産出する硫黄鉱石や材木等の運搬用に転用され利用された。
運行ダイヤは1日4往復で、通町駅始発がAM.7:30,11:00,PM.15:00,17:30であった。 通町〜加美中新田間の所要時間は 2時間45分程度であり、陸羽東線経由より時間がかかった。 これは、途中の駅での荷物の積み卸しなどのため、停車時間が非常に長かったためである。 また、雪などが降ると大幅に遅れることもしばしばであった。
運賃は、昭和の初め頃(酒1升80銭の頃)で仙台〜加美中新田間が 1円23銭であった。 この値段は陸羽東線経由の運賃より高かった。加美中新田〜中新田間は 7銭であった。 また、うどん1杯5銭、タバコのバットが7銭の頃、仙台〜陸前大沢間が40銭、 仙台〜富谷間が50銭であった。(当時の日当は、男70銭、女50銭程度であった。) 廃止になる直前の昭和25年頃では、仙台〜四釜間90円であった。
昭和14年下期定時株主総会議事要領書によると、
「営業収入ハ今期ニ於テモ時局ノ影響等ニ依リ著シク増進シ
前年同期ニ比シ鉄道旅客ハ四割三分、同貨物ハ三割ヲ増シ
自動車収入モ一割ヲ増シ通算七万千九百六円ニシテ
前年ニ比シ一万五千二百三十円即チ二割七分ノ増収ナリ。
然ルニ営業費ハ物価ノ高騰等ニ依リ是増額シ鉄道ニ於テ一割八分余、
自動車ニ於テ二割四分余ヲ増シ通算六万八千四百六円トナリ、
前年同期ニ比シ一万千四百八十三円即チ二割ヲ増額セリ。
更ニ営業収入ト営業費トノ対比ニ於テハ前年同期ハ二百四十六円ノ欠損ナリシガ
本期ハ千五百円ノ差益ナリ。之ニ収入ニ於テ政府補助金ヲ加ヘ
支出ニ於テハ支払利子及雑損ヲ加ヘタル今期損益ハ別表損益計算所載ノ通ナリ・・・」
と、堅調な経営状態であったと思われる。
以下、営業報告書から主な数字を拾ってみると、次表のとおりである。 鉄道事業では若干の赤字、自動車業を含めた全体では若干の黒字となっているが、 累積の債務を返済するまでには至っていない。 この時点で鉄道財団から31万円、自動車財団から11万円、その他 9万円、 合計51万円の借入金が残っていた。 なお、兵員輸送などに伴う政府補助金は、旅客収入に匹敵するほど重要なものであった。
収 入 | 支 出 | ||
---|---|---|---|
旅客数 | 138,272人(755人/日) | 汽車費 | 23,508円 |
旅客収入 | 38,272円 | 保存費 | 11,242円 |
貨物 | 6,186t(33t/日) | 運輸費 | 10,703円 |
貨物収入 | 10,817円 | 総係費 | 846円 |
運輸雑収 | 3,373円 | 諸税 | 110円 |
雑収入 | 237円 | 関係営業費 | 5,369円 |
政府補助金 | 32,608円 | 諸利息 | 9,576円 |
雑損 | 24,932円 | ||
鉄道収入計 | 85,491円 | 鉄道支出計 | 86,284円 |
自動車収入 | 19,023円 | 自動車支出 | 18,176円 |
総収入 | 104,514円 | 総支出 | 104,460円 |
当期純益金 | 54円 | ||
前期繰越欠損金 | 73,291円 | ||
当期繰越欠損金 | 73,137円 |
この鉄道は「仙台軌道ッコ」と愛称され、トロッコを大型化した様なものであった。 鉄道のないこの地方では初めて文明の恩恵に浴することが出来たのであった。 この鉄道の開通により沿線から仙台の高校(旧中学校)に通学する者、 仙台に通勤する者が年々多くなってきた。また兵役で入隊する者、 郡外の学校に転校する先生、仙台方面から七北田、富谷、吉岡、 中新田方面へ日用品を卸販売する人々もこの鉄道を大いに利用した。
仙台軌道(株)が開設されると始発駅前には関連企業が張り出してきた。 始発の通町駅には仙台市街自動車(銀バス)が待機して輸送にあたった。 この会社は大正8年に資本金20万円で伊勢久次郎氏が創設したものである。 バス停は青葉神社下にあり根白石方面まで走っていた。 その後、仙台鉄道もバスを持つようになり、通町駅の直前にバス停をおいた。 最初は小さなバスで定員が14〜15人、その後は30人程度のもので全部で5〜6台あった。 車掌も同乗した。その運行は旧奥州街道を北上し中新田まで2時間30分を要した。 仙台鉄道と重複していたことになる。
また、この鉄道にとって物資の輸送も重要であり、総輸送の1/4 が貨物であった。 その中でも多かったのは燃料の輸送である。 特に、三本木亜炭は良質の亜炭で仙台で大いに消費した。 小野駅では薪・木炭等を仙台方面に輸送した。 その他、米や野菜なども仙台に輸送された。 これに伴い、各駅には運送店も開業した。 通町駅前には庄子、東照宮駅と七北田駅・大沢駅前には相沢、 宮床村の富谷駅前には細川と中島、吉岡駅前には早坂、 大童には石川等の運送店が続々開業した。
仙台鉄道開業の頃は第一次世界大戦後の不況で、実に就職難の時代であった。 この鉄道に就職すると、帽子、服、靴が支給されるとあって希望者が多く、 会社ではこの採用に苦心したらしく、 採用条件として特別の技術者か鉄道沿線の者で有力株主の推薦を要したと聞いている。 この時代のこの沿線地域では事業所や工場はまったくなく、 この会社に就職したとなると人々の羨望の的で、本人も実に得意顔であったと言う。
仙台鉄道は軍事面との関係も強く、終戦と同時にこの鉄道の役務は終わった感がある。 しかし、この鉄道は時代の流れの中にあって様々な場面を見た。 特に太平洋戦争の折には七北田以北沿線沿いの徴兵で出兵する人はこの鉄道を利用した。 沿線に関係者が出兵の兵士に小旗を振り見送ったと言う。 戦後になり遺骨となって帰還したのもこの鉄道であった。
戦後の食糧難の頃は、米の統制下で配給米だけでは食べて行けぬ時代で、 仙台から米を求め仙北地方に行く人には、この「軌道ッコ」に頼る外はなかった。 東照宮駅附近で検問があるため、買い出してきた米・食料品等をその手前で車外に捨て、 後で取りに行くといった状態であった。 仙台市民が必死の思いで喰いつないできたのもこの鉄道があればこそであった。